「越えよ佐渡!」 ~2016年 佐渡国際トライアスロン大会奮闘記~


 

早朝5時50分、日の出前の静かな佐渡島の浜辺に、赤いスイムキャップをかぶった1000人もの挑戦者たちが息をひそめてスタートの合図を待つ。着用しているウエットスーツが、緊張して心拍数の上がっている肉体をさらに圧迫し何だか息苦しい。周りにいる見知らぬ挑戦者たちを見渡しながら、これから私は彼らと競うことではなく、自分がどこまでやれるのかということであり、彼らは私の戦う相手ではないという事を冷静に理解していたが、周りを見渡して「こいつら変態だわ」と 冷静に見つめてそう思っている自分も実は同じだという事には全く気がついてはいなかった。dsc_2306s

スタート前のひと時の休息は、いまから始まる長く果てしない道のりで自分がどれだけ戦えるのだろうかを頭の中で描きながら、期待と不安とが波のように交互に押し寄せ自分と葛藤している。

「自分はこのために、これまで練習を重ねてきた。きっとできるはずだ。」

つい弱気になる自分にそう言い聞かせながらも、「こんな葛藤は耐えられない早くスタートしてくれ」と何度も何度も左手にはめた腕時計を見ながらスタートの合図を願う。
236kmという距離は、スタート地点に立った今でもなおその距離感が想像できないのだった。
午前6時スタート スイム3.8km バイク190km ラン42.195km
236kmの日本最長レースがついに始まった。もう進むしかない、後にも引けない、逃げ出すことも許されない。
ふと我に返って思う、「俺はなぜそこまでやろうとするのか?」 しかしながら レースは始まりもう今さら考える
余裕もない。「その答えはゴールしたらきっとわかるだろう。」そう希望を残して海の中へ飛び込んでいった。

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浜辺から沖に向かってはるか遠く先に見えるブイに向かいただひたすら泳いでいく、1周 1.9kmを2周回、最初からスイム3.8kmはあまりに遠い。 クロールで海を泳ぎ、時折水面に顔を上げ遥か前方にあるはずの目印である黄色いブイは、私の前を泳ぐたくさんの人たちの水しぶきと赤いスイムキャップと空中を舞うクロールの手で全く見えない。

『まあとにかくこの集団に一緒について泳いで行くしかない』  そう思いながらとにかく必死で泳ぎ続ける。

「しまったなあ~」と今さら思ってももう遅い。泳ぎ切るしかないのだ。生きて帰ってこなければならない、途中でおぼれてはならない、こんなところで死ぬわけにもいかない。dsc_2609

なぜなら、佐渡に行く前に妻と子供からは「お父さん死なないで・・・」と悲しい顔で言われ、フェイスブックの書き込みにも知人から 「不吉な夢を見ました、死なないように気を付けてください。」というコメントもいただき、会社では私が死ぬと生命保険の死亡保険金1億円が会社に入るという設定になっているので、私の万が一の時は皆さんに臨時ボーナスを払うという激励の言葉で送り出された。

2年前に初めて蒲郡の51kmのトライアスロン大会に出場した時の事、残念なことに死亡者が出たという夕方のニュースを見た人たちが「近藤がトライアスロンで死んだ」、「あいつ死んだぞ」と勝手な噂を立てていた。

なぜか皆さん私を想像の中で殺したがる。だから私は溺れ死ぬわけにはいかないのだ。

1000人が一斉にスタートした遠浅の海はどこを泳いでも人だらけ、泳ぎながら人と人とが常にぶつかり合う。クロールで海水をかき、空中を舞う隣の人のその手が私の後頭部に何度も当たりムカッと来る。私の後ろを泳ぐ人の手が私の足をわざと引っ張りに来たのではいかと思うほど足首やかかとにあたる。

とにかくずーっとそんなバトルが永遠に続いていくのであった。やがて日の出となり南に向かって泳ぎ進む私は左側で常に呼吸をするため、顔はその都度東を向くので朝日が目に刺さり強烈にまぶしい。目に刺さった朝日のせいで視力を失い、泳ぎながら顔を上げ前方を確認してもぼやっとして先がよく見えない。レース前にゴーグルに曇り止めを塗ったおかげで曇ってはいないが、泳いでも、泳いでも1周目の折り返し地点の黄色いブイは何処にあるのかすらわからない。とにかく、このバトルの中で南の方に向かって泳いでいくだけである。

やっとのこと折り返しまできて今度は陸に向かって泳いていくのだが、何処に向かって泳いでいいか、相変わらず選手たちの水しぶきと、それに加えて今度は朝日の逆光で、泳ぎながら一瞬顔を前に上げてみるだけでは見定まらない。バトルはまだまだ続く。

隣を泳いでいた人が突然方向を見失ったのか、いきなり私の目の前を直角に横切り進路をふさがれる。さらに私の両端を泳いでいた2人が八の字型に私の進路をふさぎその道の先は袋小路だ。

溺れそうになって慌てて平泳ぎに切り替え体制を整えていたら、私の右足のかかとに誰かの水中眼鏡にヒットした。すまない、かかとで後ろの誰かの顔をけってしまったようだ。体勢を立て直しクロールで泳ぎ進めていたら私の右の脇の下に潜り込んでくるかのように泳いでくる奴がいた。img_0_m

私は自分のペースを保ちながら、クロールで泳ぐ私の右手が空中を舞ったその時、完全に私の脇の下に誰かの頭が入り込んできた。その後、水中をキャッチした私の右手は彼の首根っこをつかんでしまい、「水中ニ―ブラ」をしてしまった。「すまない、わざとじゃないから許してくれ。」 水中バトルはまだまだ続く。

相変わらず私の後方で、誰かが足のかかとを何度も触ってくるのでいい加減イライラしてしまい、そんなときは急激にバタ足をすると相手が嫌がって相手の手がかかとに当たらなくなることを私は知っていた。それに味を占めた私は時々それをして回避していたのが、調子に乗って威嚇のためのバタ足をした私の右ふくらはぎが、つってしまい水中で悶絶し失速。余計なエネルギーは使うんじゃないと反省をした。

dsc_2611そんなバトルを繰り返し1周目を終えいったん陸に上がって時計を見ると40分経過していた。予定通りのいいペース、無理せず焦らずこれから長い1日の体力を温存しながらクリアしなければならない、そう思って2周目に向かったのだが2周目は波と風が出始めさらに潮の流れがきつくなってきた。

泳いでも泳いでも先が見えない中で相変わらずバトルは続く。私と同じような泳力の集団がずーっと一緒に泳いでいるのだ。私は前方の進路を見極めながら比較的人の少ないところを泳いでいくが、横から後ろから誰か常に寄ってくる。ウエットスーツを着た私のお尻にクロールで空中を舞った誰かの手が肛門めがけで突き刺さる。

「ううぉっ・・・!何で水中で浣腸されるんだ!」動揺は隠しきれない。

dsc_2612何とか2周目を終え陸に上がり後ろを振り向くとまだまだ泳いでいる人たちの姿が見える、自分の位置は全体の3分の2くらいだろうか。とにかく溺れ死なずにスイムが終わったことにホッとするが、時計を見ると2周目は1時間もかかっていた。レース後にリザルトを見るとスイム順位は686位(約1000人中)であった。まあ私の実力はこんなもんだ。まあいい、上出来だ。

1周目は40分だったのに、後半は潮の流れがやはりきつかったようだ。予定より20分遅れとなり、まだ始まったばかりであるが焦りを感じた。

この20分のロスが最後の時間切れに影響することを私は恐れたのである。
 

14352476_1132692866810830_7125358309042889476_o砂浜を駆け上がり陸に上がると、シャワーが用意されておりここで砂と海水を洗い流し、ついでにウエットスーツも脱いで全身を数秒で洗った。そしてバイクが置いてあるトランジションエリアに駆け込む。

バイクジャージに着替え、用意しておいたカロリーメイトを食べ、そして自称必勝ドリンクであるトマトジュースを一気飲みした。日焼け防止と加圧のために腕にアームカバーを装着。ヘルメットをかぶりサングラスをかけ、いよいよ190kmバイクの度にスタートする。もう距離がどうだとか言ってられない、考えていられない。

とにかく出発するだけだ。さあ行こう!

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初めからあまり張り切らない様にと言われていたので、スイム後に疲労した体がバイクになじむまで、少しウォーミングアップをしながら漕ぎ進む。

そうは言っても5km位進んだところにもういきなり上り坂が始まる。今日はこの連続か!?とすでに恐ろしくなる。スイム3.8kmのダメージはやはり大きい。

いつもの土曜日の練習では3km泳いだ後にバイクで75kmを漕いでいたのだが、それはスイムの途中もバイクを漕ぐ前にもちゃんと休憩をはさんでいたから何とかできたのであって、それ以上なことをノンストップでやっているという事にバイクを漕ぎながら実感をしたのだった。

 


signもう、何を思ったとしても、何を言い訳しても、バイク190kmの旅は始まっているのだ。言い訳しても自分がだんだん卑屈になっていくだけだ。


そうは言っても佐渡の景色は美しい。天気も良く、海も青い。「こんなところに火力発電所があるんだな?」  一瞬で通り過ぎる佐渡の様々な風景に心を許し、今自分がおかれている過酷な状況を自分で癒し慰めていこうとする、「今日はサイクリングだ!」そう思い込ませようと、ただひたすら目に映る景色にいちいち反応することにしていたのだった。

バイクを漕ぎはじめ15kmくらい進んだところに、今回宿泊している旅館の前を通りぎると、マネージャーとお姉さまたちが応援で手を振ってくれていた。「行ってきま~す!」と叫び手を振って走り去っていく。そして急に寂しくなった。旅館のお姉さま方に会えるのはレースが終わって帰ってくる推定時刻今夜23時頃であろうと考えてしまう。お姉さまたちに会えないのが寂しく切ないのではない。その時間まで私は永遠と孤独で一人もがき苦しみ、自分と闘い続けているという事を想像してしまったのだ。

自分と闘うんだ。この先、弱気になったらどうしよう。誰も助けてはくれない。そんな孤独感に少しの寂しさを覚えた。

相川という小さな町を抜け、海岸線を走り、田んぼ道を超え、また次の小さな街を通り過ぎる。所々に佐渡の島の人達が私たちを応援してくれている。頑張らねばと励まされる。海岸線を走る佐渡の景色は素晴らしい。楽しんでいる余裕もないが、長い一日、そんな力んだところで持たない、だから景色を楽しみながら気楽にいこう、そう自分に言い聞かせるしか、190kmの道のりをバイクを漕ぐことの他にやることはなかったのだ。sadobike
今回のようなロングトライアスロンでは、エネルギーを1万キロカロリーくらい消費するので、栄養補給が必要なのである。正確にはよく知らないが、人間が体に蓄えられるエネルギーはせいぜい5千~7千キロカロリーくらいだという話だ。つまり、途中でエネルギー切れを起こすという事なのだ。だから、レースの途中に食べなければならない。そうは言っても、じゃあお昼12時だからといって10分休憩を取り、弁当を腹いっぱい食べるわけにもいかない。そんな時間があったとしても、お腹いっぱいでは次に動けないのである。

スイムの途中で泳ぎながら食べることはできない、最後のランの時に息を上げながらたくさん食べることができない、食べ過ぎると気持ち悪くなって走れない。という事はバイクの時に食べるしかない。バイクは座って漕いでいるので、ランに比べて体内の内臓が上下しないために、食べた後に内臓が揺れて気持ち悪くなるという事も少ないのだ。dsc_2519

そこで、バイクに食料を積み込まなければならない。かといって邪魔になってはいけない。フレームに専用のポーチを装着して、その中に補給食をセットしておくのだ。漕いでいるときにここから取り出して漕ぎながら食べると言う訳なのである。

よくエネルギージェルとか補給する人がいるが、私はそれが体質に合わない。甘すぎるし、気持ち悪くなるし、食べた気にならないし、腹が減る。やっぱりある程度の腹持ちのよい固形物が一番いいという結論になる。dsc_2449

先輩方から色々話を聞いた中で、稲荷寿司が良いということで今回採用することにした。前日にスーパーで買い、旅館で冷凍しておいて朝バイクにセットしておけば、昼までには自然解凍されて悪くならないという事だった。なるほど、という事でその通りスーパーに買い出しに行き、旅館の部屋の冷凍庫で凍らすことにした。

佐渡に行く前にバイクを6時間漕ぐ練習をした時の事、補給の練習を兼ねて色々テストをしてみた。その結果、15分おきに何かを少量ずつ補給すると体力もやる気も持続するという事が実験の結果わかった。

時計を見ながら、分針が0分の時はおにぎりを食べ、15分の時には塩タブレット(足がつらない様に塩分補給のため)、30分の時にはカロリーメイト、45分の時にはクエン酸飴、そして0分になったらまたおにぎりを食べるという、1時間内の時間割で補給することに決めていた。今回はおにぎりの代わりに稲荷寿司にして、190kmの道のり約7時間くらいをずーっとこの時間割で行こうという作戦にしたのだった。稲荷寿司は1時間おきに1個食べるので7時間なら7個、予備も含めて合計9個を持って行くことにした。

ところが・・・ レース当日、朝起きると稲荷寿司が凍っていない!

旅館備え付けの簡易冷蔵庫の中にある冷凍スペースでは凍らなかったのだ。これは困った、昼までに稲荷寿司が悪くなる可能性がある・・・。

そんな訳で、スイムが終わりバイクをスタートした午前8時前から予定していた私の補給食の時間割は早速乱れることとなった。とにかく早いうちに稲荷寿司を消化しないと気温が上がって腐ってしまう可能性がある。それを食べたら途中で腹痛になるかもしれない。そんな腹痛はごめんだ!という事で、1時間に1個の稲荷寿司サイクルを予定変更させ、カロリーメイトは午後に回し、時計の分針が0分と30分の時に稲荷寿司を補給するということをバイクを漕ぎながら考え、そうすることに決めた。8時0分、8時30分、9時0分、9時30分・・・と稲荷寿司補給の時刻表ダイヤを変更すると、積み込んだ稲荷寿司9個を完食するのは午後12時半・・・。自転車を漕ぎ、息を上げながらそんなアホな計算をしつつ、トラブルだ!事件だ!事件は現場で起きている!ここは臨機応変、それもトライアスロンだ!!!と、長時間にわたり苦痛が伴う私の脳はそんな独り言が楽しくなってしまったのだった。

ただひたすらバイクを漕ぎ進め50kmくらいを過ぎたころ、佐渡バイクコースの難所の一つと言われている「Z坂(ぜっとざか)」が見え始めた。dsc_2790坂道がZの形をしていて標高100mほどを一気に漕ぎあがらなければならない難所なのである。朝6時スタートしスイム3.8km泳いで、バイクで50~60km漕いだ後に訪れるその坂道は、嫌がらせでしかない。

ここで頑張りすぎて体力を消耗してしまえば、この先まだまだ長い道のりでは、へばってしまう。さて、今の自分の体調とこの先の体力温存と、どうあるべきか、さあどう攻めていこうか?と漕ぎながら考えていたその時、事件は起こった。

お腹が痛い・・・、もよおしてきた・・・。なんてこった!14215560_669690833193657_1555704396_o

一体どうしたんだ!漕ぎながらふと我に返る。そうだ、今朝ウ〇コしていない!それが今来たのか!

今回我々が泊まった旅館は素晴らしく、料理も最高で、なんといっても佐渡の白米は私がこれまでの人生で一番うまいと思えた、とにかくうまいのである。

レース前夜、豪華な料理とともに佐渡の白飯をむしゃむしゃと食べた。私はせいぜい茶碗に1~2杯ほどしか普段は食べないが、レース前日でエネルギー補給ということもあり、そして体もそれを要求していたため思うがままにご飯のおかわりをしたら、なんと茶碗に6杯も食べてしまったのだ。「よし!これで明日の為のエネルギー充電完了!」と意気込み、明日は朝が早いので8時過ぎにはもう布団に入り9時前には眠りについた。

そして当日の朝は午前2時半起床、体を起こすため軽く朝風呂に入り、用意されていたおにぎりの朝食を食べ、朝4時前には宿を出発することとなっていた。ところが、朝食を食べててもウ〇コが出ない・・・。これはまずいぞ!ちょっと焦りを感じた。そりゃ、前日の夜6~7時に大量のご飯を食べておきながら、夜中の3時にウ〇コ出せと言っても体の方は「消化に時間がかかっておりますので今しばらくお待ちください」って言うにきまってるだろ?と昨夜食べ過ぎたことを夜中の3時過ぎに後悔することとなった。

朝6時からレースがスタートし、心拍数を上げ、血流をよくして、8時過ぎからこまめに補給食を流し込んで体内を活性化していけば、そりゃ腸内運動も活性化されるわけで・・・。

「まずい、非常にまずい。ウ〇コ出ちゃう、どうしよう・・・ここでリタイアか?ウ〇コでか?帰ったらみんなに何と報告をすればいいんだ・・・・!」そんな葛藤をしながら漕いでいると遠くかすかに看板が見えた。
「岩谷WS・・・・!」」 WSとは「ウォーター・ステーション」つまり、給水所・休憩所である。「トイレがあるはずだ!神よ今日は俺の味方だな!」そこから一気に漕ぎあがりトイレへとダッシュする。息を上げながらトイレで無事にことを終える。こんなにハアハアと息を上げながらウ〇コをしたのは人生初だ、そんなことを安堵した私はレース中に思う。

再び漕ぎ走り出したバイクはやがてZ坂に差し掛かる。「来やがったな!ばかやろう。俺を試しやがって!」そんな独り言を言いながら標高100mを一気に漕ぎあがる。

  
ところが・・・。標高100mを一気に漕ぎあがる坂のはずが、私はスイスイ漕ぎ登っていくではないか! 「どうしたんだ、おれ?」 「ぜいぜい、はあはあ」と息を切らし、もがき漕ぎあがる選手たちをこの私は次々と抜き漕ぎあがっていく。「調子に乗るな!ここで張り切っては、後でダメージがやってくる。。。」そう言い聞かせるが、犬がワンワン吠えるかのように、フンフンフンフン・・・と漕ぎあがっていく。先ほどトイレでウ〇コして身軽になった私はさぞかし快調・快腸だったわけだ。

噂に聞いて恐れていたあの「Z坂」は、そんな調子であっさりクリアをした。その先からは苦しみの後のご褒美というべきなのか、佐渡島の美しい島の景色を見ながら、爽快に下り坂を海辺まで一気に降りていく。


 
そんな奮闘をしていても進んだのはまだまだ60km、3分の1以下である。

土曜日の練習ならもうすぐ終わりの距離だ。 長い、長い、長い、とにかく長い。そこから先は、上り下りの山道が永遠に続く。とにかく必死に漕いでいた。景色を見る余裕もその頃にはなく、そのあたりの記憶が今はない。

漕いでも、漕いでもまだ半分にもいかない。

車でドライブをしている時、遠くに見える景色の中にいくつかの連なる山が見え、今からあの山の向こう側まで車で走っていくから、もう少し時間がかかるね・・・。そんな記憶は誰もが一度はあるだろう。

それを車ではなく、自転車で走っている。

あの山の向こうまで行くわけ?それでもまだ島の何分の1以下でしょ?いったいどこまで漕いでいけばいいの?

漕いでも、漕いでも、漕いでも、次々と目に映る景色は果てしなく、目を疑う。

ところどころに島の人々が家の前で応援をしてくれている。おじいちゃん、おばあちゃん、子供達、変装している変な人たち、宴会をしながら観戦している人たち、私が通過するたびに皆、大きな声援を送ってくれる。


 
「佐渡の皆さん、お邪魔してます。そして、ありがとうございます。」そんな温かい気持ちになった。

気が付くと105km地点、「住吉AS(エイドステーション)」の関門に到達した。エイドステーションには給水の他に食料も色々あり、エネルギー補給をする場所でもある。


先を急ぐレースの中、バイクを降りて時間を使うことはロスに繋がるのだが、むしろバイクを降りてでも補給しなければエネルギーが枯渇してゴールにたどり着けない、それがロングトライアスロンなのだ。

そして、とにかく暑い、そして体が熱い。午後12時の気温は記録によると33.6度、全身から汗が滝のように流れて出て脱水症状になる。水分補給をしても追いつかない。かといって飲みすぎると胃がやられてしまう。胃がやられてしまうと、今度は補給食が胃に入らなくなる。そうするとエネルギー補給が途絶えてしまい、後半でエネルギーが枯渇し倒れてしまう。つまりリタイアという事になる。

そこで、体に水をかけてとにかく体を冷やすことなのだ。気化熱と言って体から水が蒸発する際に熱を奪い体温が下げていくということだ。これなら、胃もやられずに済む。
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とにかく冷やせ、体を冷やせ!

水道ホースのシャワーで豪快に水をかけてくれ! キンキンに冷えた氷水を頭からかけてくれ!水を含んだスポンジを上着の首元に挟んで冷やしながらバイクを漕ぐ。

時計の針は午後12時を過ぎ、午後の暑い日差しに息のあがった暑い肉体に水をかけ、とにかく冷やさなければオーバーヒートしてしまう。バイク190kmのうち、すでに半分を過ぎ残り80kmほどとなった。出来れば午後3時までにバイク190kmを終わらせたい。そうすれば、残りフルマラソン42.195kmも6時間半あれば、ゆっくり走って、途中歩きながらでも何とかゴールの時間制限午後9時30分には間に合うはずだ。。。と時間を逆算し、これからのペースをバイクをひたすらこぎながら計算していく。無理をしないペースである時速30kmで漕いで何とか間に合うだろうか・・・ そんな事ばかり考えながら漕いで、もう景色を楽しみながら、佐渡の美しい景色に心を許しながら漕いでいる余裕などはない。その余分なエネルギーすら惜しくなった。


私の肉体は、感情を失い自動操縦モードに切り替わる。私が何を考え想いあがこうが、命令通り一定のペースで漕ぎなさい。そして余計なエネルギーは消費してはなりません。ただひたすら漕ぎなさい。いいからとにかくあと3時間一定のペースで漕ぎ続けなさい。漕ぎなさい・・・。私の首から下の肉体は「オートクルーズ・モード」に設定された。シャカシャカ、シャカシャカ・・・ ペダルを踏みギアが回転する音と前へ進む風を切る音と、ゼイゼイ、ハアハア・・・と自分の呼吸の音しかもう耳には入ってこない。感情は失い、私はマシーンと化す。
佐渡島の海岸線を走るその美しい景色は、どれだけ目に映ってももう何も感情が動かなくなっていた。むしろ、午後の傾いた日差しが佐渡の海を照らし反射して、南に向かって漕ぎ進む私の視界に絶えず刺さり、サングラスをしていても目が痛くなるほどだった。海岸線をひたすら走り、その道のずっと遥か先に海を挟んで見える島の岬は、これから漕ぎ進んでいく単なる通過点でしかなく、その岬の山の裏のもっと先まで漕いで、漕いで、漕ぎ進んでいかなければバイク190kmのゴールは現れないという事を見ただけで簡単に想像ができてしまう。そう思う度に恐ろしくなるのを今日はもう何度も経験しているので、そんな感情を持たないことだという事に気が付いて、ただひたすら何も考えずマシーンとなって漕ぎ続けることが一番楽であるという事を学習していたのだった。
感情をエコノミーモードに切り替え、肉体をオートクルーズモードでただひたすら漕ぎ進んでいくとボランティアの中高生たちの元気な声がかすかに聞こえてきた。

「ウォーターステーションだ!」

もうろうとする意識の中、その先に見えるオアシスの様だった。とにかく俺に水をかけてくれ、給水ボトルをくれ!ボランティアの中高生たちが精一杯に手を伸ばし、水、アクエリアス、コーラなどをバイクを漕ぎながら我々がキャッチできるようにしてくれている。
「君たち、ありがとう!」学校が休みの日に、我々のために暑い中、大きな声をあげてサポートしてくれている姿に涙が出てきた。「よし、がんばろう。」ここで弱気になって挫折するわけにはいかないのだ。まだまだ先は長い。 「ありがとう!!」精一杯の大きな声でお礼の言葉をかけて先へと漕ぎ進んでいった。

感情を抑え、孤独と闘い、ひたすらマシーンと化して漕ぎ進んできた私がこの一瞬だけでも「人間になった」気がした心あふれるひと時であったと言っても大げさではない。
さらに漕ぎ進む。190kmはまだまだ遠い。朝からずーっと漕ぎ続けている間に、所々でトラブルが起こっているのを見かけた。タイヤがパンクして修理している人、転倒してもがき苦しんでいる人、脱水症状になって倒れこんでいる人、救急車の音も3回ほど聞こえてきた。

「何としても、トラブルは避けたい。転倒には気を付けよう。パンクはお願いだからしないでくれ!他の人との接触は避けるために周りには気を付けよう・・・」そんな注意を慎重にやってきた。そんなトラブルでリタイアするわけにはいかないのだ。

そんな思いで漕ぎ進んできた、昼下がり午後2時を過ぎたころだろうか、事件が起こった。
ウォーターステーションでもらった給水用のボトルをバイクのサドルの後ろに2本刺せるように「ボトルゲージ」というものがつけてあるのだが、漕ぎながら片手を後ろに回し、刺してあるボトルをとって給水して、飲み終わったらまた片手でボトルを刺すということを道中何度も行っていたのだが、なんだか刺さりが悪いというかグラグラするな・・・という気がしてきた。

dsc_2521そうは言っても前を向いて漕いでいるので、後ろを向いてその様子を確認すると転倒する可能性があるので見れずにいた。心配なら止まって見ればいいと思うのだが、一刻を争い時間を惜しんでいた私はそれすらしなかった。というよりも、同じようなペースで漕いでいる3人くらいの人で抜いたり、抜き返したりとそんなささやかなバトルをしており、意地になっていたので、ここで止まったら彼らに置いていかれるとなんだか悔しいという小さなプライドを優先してしまっていたのだった。

無心になってひたすら漕ぎ続けていたその時、「チャリン!ガラガラガラ、チャリン、チャリン!」何かの部品が外れ後輪に絡まり、そして地面に落下して転がっていった音がした・・・・。「まずい!何かが外れた!」 慌ててブレーキをして自転車を止め降りて見渡すとボトルゲージが止めてあったネジが片方外れてもうない。転がっていったネジを探そうと思ったが、落下してからもう10m以上漕ぎ進んでしまい、ここから歩いて地面をはいつくばってネジを探すという時間はもうない。ネジの回収はあきらめよう、残された片側のネジが外れないように締めなおすしかない。自転車を路肩に寄せ、自転車に装着してある工具セットを取り出し六角レンチでネジを思いっきり締めなおした。その間に、私の前を何人もの選手が次から次へと漕ぎ去っていく。私はまるでパンクして修理している選手のようにタイムロスをしていることに、一人の選手が通過していくたびにその焦りがどんどんと出てきた。

幸い外れたネジが後輪に絡まった影響で転倒することなく済んだが、万が一もう片方のネジが外れてしまった時にボトルゲージ本体が外れ落下してしまうと後輪のホイルに絡み、そのせいでホイルが破損し転倒して怪我をする可能性も十分にあった。そうなったらもうリタイアしかない。それは何があっても避けたいのだ、こんなところでリタイアしてたまるか。
そんなトラブルを乗り越えながら漕ぎ進んでいくと何とか160km地点に到達した。ところがそこには最後の難関「小木の坂」がある。ここまで160kmを必死に漕いでクタクタになっている挑戦者たちに、高低差140mもある上り坂の壁が立ちはだかっていく。とどめを刺すかのようだ。「勘弁してくれ!」 ここで力を使い果たしてしまうと、バイクが終わったあとのランに大きなダメージを与えてしまう。だから慎重に、そしてペースを落とさずクリアしなければならないという難関なのであった。
そして、いきなり急こう配の登り坂がやってくる。「フン、フン、フン、フン、フン・・・」もう勢いと気合いと根性で漕ぎあがるしか方法がない。何人かの選手が脱落し、自転車を降りて歩いて登っていた。猛烈な肉体的な負荷と息が上がり呼吸が苦しい、そして心が折れそうになる。「降りたらだめだ!時間が無くなる!何としても完走しなければならないのだ!」と私を唯一支えたのは「完走するぞ!」という強い意志だけだった。気が付くと私は何人もの選手をぐんぐんとゴボウ抜きで漕ぎぬかしていく。「あれ?俺ってもしかして坂道強い?」そんな変な自信を脱落する選手を横目で見ながら感じつつ、いつまでも続く坂道を漕ぎあがっていった。 昨年、トライアスロンの山合宿で茶臼山を自転車で上り坂しかない14kmを漕ぎあがったことを思い出した。「それに比べたら、こんな坂はきっとすぐ終わるはずだ、大したことない。」そう言い聞かせ、勇気を奮い立たせた。
何とか漕ぎあがり小木の坂をクリアすると、これまで漕ぎあがった山を今度は一気に下っていく。漕がなくても時速40~50kmくらいのスピードでどんどん進んでいった。「よし、ここで足を休ませよう」漕がなくても進んでいくから大丈夫だ。それ以上漕いでスピードを出したら私の技術では自転車をコントロールできず転倒し大けがをするだろうからこれでいいのだと、坂を下りながら少し先に見える海の景色を楽しみながら下って行った。

先輩からの話を思い出した。「ここで気を抜くなよ、ここで難関は終わりではない。次にもう一つやってくる、勘違いするな!」と言われていたことを。しかし、気を抜いてしまって「まさかこんな下り坂が続き、その先を見ると海しか見えないし、もうこれまで見たいな ‘‘ THE 山 ”みたいな、山はもうないでしょ!だって海じゃん!」 そう勘違いが始まった。「またまた先輩、私をビビらせて・・・」とそんな疑いすらし始めた。この海に向かう下り坂からは、次にもう一山あるとは全く想像がつかなかったのだった。そして、海岸線が見え始め海に出た。「ほら、やっぱりさっきの山で難関は終わったんじゃん!」そう安心して漕ぎすすんでいくと、何と!海岸線の道路が急こう配で登っているのではないか!!まじか!?海の近くは平たんじゃないのね? これまで散々そんな景色を佐渡の島で見てきたにもかかわらず、その光景は信じられなかったのである。「うおっ!さらにとどめがやってきたのか!」と標高90m位の登り坂を漕ぎあがっていった。「先輩、疑ってしまい申し訳ありません・・・。」と泣きながら漕ぎあがっていったのだった。
やっとその難関を超え、再び海岸線にでた。距離メーターを見ると残りあと10kmほどだった。「あと10kmでやっと終わる・・・」時計を見ると午後3時を過ぎていた。「まずい、時間がない。今この平坦な海岸線を早く漕ぎ進み時間を稼がないと、最後のランの時間が減ってしまう。急げ!漕げ!」そんな焦りで必死に漕ぎ進んでいくがさらに試練が訪れた。それは「逆風」であった。一般的に午後の海は風が吹く。日が陰りはじめ気温が少し下がりはじめていくと熱い空気と冷えた空気が交わろうとするために風ができる、そんな地球のしくみによって起こった風が私が進みたい方向とは真逆の方向へ強烈に吹き荒れていく。「なんでや!やっと平坦な道でここで加速したい所なのに・・・」その行く先を阻む。回転数上げギアを最大にしても進まない。「佐渡はどこまで俺に挑んでくるんだ!バカヤロー!」とだんだん佐渡が憎たらしくなってきた。

そんな試練を乗り越え漕ぎ進んでいくと、残りあと5kmほどとなった。これまでの山と海の景色から商店街の景色へと移り替わっていく。「もうすぐバイク190kmのゴールだ!」と安心感がわいてきた。なんだか生還した気分になってきた。「よくもまあ、佐渡島1周190kmも自転車で漕いできちゃったな、何とか無事に帰還できそうだ。私の自転車よありがとう。よくやってくれた!」 テレビでみる競馬の騎手がゴール直後に馬に「なぜなぜ、よしよし」と労うシーンのように、私の自転車にもそんな感謝の気持ちがわいてきた。街頭で応援してくれる島の人たちが増えてきて本当に生還した気分になってきた。先ほどの逆風で佐渡を憎んだが、もうそれは許してやろうと思った。本当に長い戦いだった。朝8時前から午後4時前くらいの約8時間、190kmの道のりをただひたすら自転車を漕いできたのだった。もうこれでも変態だと思うが、そんな達成感を味わうことも許されずこの後に最後のラン、42.195kmというフルマラソンが待っているのだった。
dsc_2451朝、自転車をスタートしたトランジションエリアの近くまで来ると、もう先にバイクを終えた人たちがランを開始しており、そのランコースと横目に見ながら商店街のなかを漕ぎ進んでいく。みなさんとても苦しい顔をして走っている姿が目に焼き付いた。午後4時前でも日中の猛暑の名残はまだまだ十分に残っており、頭から水をかぶってもまだその暑さは消えないほどだった。自分もこれから暑い中42.195kmを走らなければならないと思うとぞっとする。しかし、やるしかないのだ。ここまで来たら、最後までいくしかない。

ようやくバイク種目のゴールであるトランジションエリアに到着した。時計を見ると午後4時前になっている。バイクスタートして約8時間、190kmのゴールである。思ったよりも時間がかかってしまっていたことに焦りを感じる。今から始まるラン42.195kmをゴールするための門限が夜の9時30分、残りあと5時間半しかない、とにかく急げ。

佐渡1周190kmを越えてきたという余韻に浸ることもできず、バイクラックに自転車をかけて、ヘルメット、グローブをさっと脱ぎ、バイクシューズからランシューズに履き替えた。ポケットに、足がつった時に備えた薬と痛み止めのロキソニン、万が一途中で腹が痛くなった時に備えて下痢止めを装備していった。今から何が起こるかわからないのだ。どんなトラブルが起こっても何としてでも走り抜けなければゴールはない。もう迷っている暇もない、さあ行け!走り出せ!自転車を降りてから5分ほどで一息つく間もなく、このわが身をランニングシューズに乗せてアスファルトの上へ放り投げていったのである。伝わってくるのは日中の日差しで熱せられたアスファルトからの地熱だった。
「とにかく前へ進もう・・・」

朝6時から海を3.8km泳ぎ、自転車で佐渡島1周190kmの道のりを8時間漕ぎっぱなしの後にたどり着いたランニング42.195kmのスタートはもう尋常じゃない。ただでさえ、普通にフルマラソンのスタートでも勇気と覚悟を決めて走り出し自分の限界に挑戦が始まっていくというのに、かれこれもう10時間自分と闘ってきたその後にフルマラソンが始まるのである。もう変態でしかない。
佐渡の皆さんから声援を受けながら商店街を走り抜けていく。周りのランナーを見渡しても颯爽と走っている人はいない。皆、苦しそうにヨチヨチと走っているように見える。ペースが上がらないのだ。そしてとにかく暑い。頭から水をかぶり体を冷やしていっても体の火照りは消えることはない。

やがて商店街を抜け民家の路地へと入っていく。片道約10kmの道のりを2往復するコース設定となっており、商店街から民家を通り抜け、黄金色の田園風景の中を走り抜けていくのだ。

 


9月の佐渡の日差しは夕方5時を過ぎてもガンガンに照り付けていた。体内から熱がこもり、水分を奪い、息をあげ、全身が燃え上がるような暑さに加えて、日の光が体を照り付け体力を奪っていく。自転車で漕ぎ進んできた佐渡の山の景色がその道の行く先にまた現れてくる。「いったいどこまで走っていくのだろうか?」始めて走るそのランニングコースはこの先の何処に折り返し地点があるのか全く分からない。とにかく皆が走る方へついていくしかないのである。「またあの山のふもとまで走っていくわけ?まさかあの山を走って越えることはないだろう・・・。」そんな不安とも戦いながら体のエネルギーはどんどん奪われていく。
ランニングコースは片道10kmを2往復するため、途中で先を行く仲間とすれ違う事ができる。私は遅い方なので「先輩方はきっと先に行っているはずに違いない。10kmの折り返し地点に行くまでにすれ違うはずだ、励まし合っていこう」そう期待をしながら走り続けた。やがて、今回一緒に行った、山本さん、水藤さん、三宅さん、藤原さん、そしてトライアスロンチーム「リップル」の榊谷さん、直接話をしたことがないが「リップル」のウエアを着ている人たちとすれ違う度に「頑張ろう!」と声をかけあっていった。それまで朝6時からずっと孤独で戦ってきた、向き合うのは常に自分しかなかったが、仲間と声を掛け合い、苦しみを分かち合い、ゴールで会おうという暗黙の誓いを走りながら交わしていくことで、ずいぶん心が救われたのだった。

そうは言っても、私の体はもう限界近くまで来ていた。走ろうとしてもだんだん体が言うことを聞かなくなってきている。トライアスロンの合宿練習の時、監督から「ウォークブレイク」という手法を教わった。それは、ずっと走り続けられなくなった時、あて歩くことをする。100mでも歩いて、一旦体を休めながら回復をさせてまた走り出すという方法なのだ。無理して走り続けるよりも、この「ウォークブレイク」を時々取り入れることで結果として早く走れるというこのなのだ。そして時々この「ウォークブレイク」を取り入れながら、先へと進む。時間は徐々に過ぎていくばかりだ。
ランニングをスタートしたのは午後4時ごろで門限は夜の9時30分、5時間半で42.195kmを走り抜けるには時間配分が必要だと、走りながら計算をしていった。とりあえず、最初の1往復目の21kmは2時間半で行き、残りの21kmは3時間かけて行こうとタイムスケジュールを組んでいた。よって初めの10km折り返し地点を1時間15分で通過しなければならない。「このままのペースで行けば、何とかタイムスケジュール通りにいける、先の事は考えるな、今に全てを集中しろ!」 そう言い聞かせながら走っていく。 途中、3km毎くらいに給水所があり、その度に頭から水をかぶった。お腹を濡らすと冷えて途中で腹が痛くなり走れなくなるといけないので、腰を引き頭を前に出した状態で頭から水をかけてもらう。そうやって腹を冷やさないようにするが、走り出すと頭からかぶった水は体を滴り腹部を濡らしていく。そして、ランニングシューズまで滴りもうシューズの中は水でグチョグチョになっていた。

長距離を走っていると靴擦れを越して足にマメができたり、擦れて皮がめくれてくる時があるが、グチョグチョになったシューズのせいで足の皮膚はふやけて柔らかくなっていた。そこに長時間の摩擦が加わり、皮がめくれやすくなってしまい、じわじわと足の痛みが出てきていた。おそらく靴下の中で出血しているかもしれない。しかし、そうは言っても走り続けるしかないのだ。ポケットの中に準備していた鎮痛剤のロキソニンを取り出し、痛みが少しでもとれればと思い、効くかどうかもわからないがとにかく鎮痛剤を飲んだ。もう気休めでしかない。

10km折り返し地点を過ぎ、これまで走ってきた道を戻っていく。もうコースの状況が分かったので、どこまで走っていくのかという不安は無くなったが、今度はこのコースを2往復しないとゴールしないという事に気が付き、今まで来た道を走って戻り、またここまで走ってきて折り返してゴールに向かうという距離感を想像するとその道のりがいかに遠く果てしないかという事に気を失いそうになった。

やがて日は暮れていき先ほどのようなガンガン照り付ける日差しではなく、穏やかな夕日となっていた。日差しによって奪われる体力は軽減されたが、地熱はまだまだ残り、火照る体にじわじわとダメージを与え続けていく。しかしながら、今度は夜になるにつれて体が冷える心配をしなければならない。汗とかぶった水で全身がベタベタに濡れている体が夜風に吹かれて冷えていくはずだ。どれだけの気温差になるのか分からないが、風が出てきたら危険なのである。日中あれだけ熱中症になりかけるほどの暑さから、今度は夜風で体が冷えて低体温症になるリスクがある、さらにもう体力も限界近くまで来ているためにその温度差と体温低下によるダメージは命にもかかわる危険にさらされていくことになる。「どうすべきか?状況を見て色々と対策をしていくしかないな。」と走りながらあれこれ考えていった。背中のポケットにはマラソン用の簡易カッパを装備してあるので、いざとなったらそれを着て走れば何とか風と低体温対策にはなるだろう。

いよいよ辺りは暗くなり夜へと突入していった。今朝2時半に起きて日の出とともに朝6時スタートして、1日中暑さと闘ってもうすっかり暗くなった。「俺はいったい何してんだ?」とふと思うが、今すべきことは目の前の苦しみを超え1歩でも前に進むことしか許されなかった。暗闇の向こうには所々に街灯と大会用に設置された投光器の光がぽつぽつとその行く先を照らし示している。その明かりの元には、私よりも先に行くランナーたちがもがき苦しみながら走っている姿が見える。少しでも早くあの明かりの元へ進みたい。やっとそこにたどり着いたら、今度はまたその先に見える明かりの元へ・・・。そんな光を求めてさまよう虫のように、光を目指して走っていった。

だんだん体も冷えはじめ、体力も限界に来ていた。そして、気持ちもだんだん弱気になっていく。「もう、無理なんじゃないか?」 そんな囁きが頭をかすめる。「いや、何を言ってるんだ!何としてでも完走してやる!進め!1歩でも前に進むんだ!」 そんなもう一人の私の声が頭をかすめる。そんな二人の自分の声が頭の中で喧嘩しはじめてきた。だんだんそれが頭の中でエスカレートしてゆく。体は限界に近づき、行く先の遠くの光を求めて意識がかすかに薄れていく中で、「弱気」と「勇気」が激しいバトルを展開していった。弱気になると体が急に硬直し始め動かなくなる一方、勇気を出すと何とか前に進む力が湧いてくる。人間の仕組みを、いまそれをまさに体感している最中であった。想定はしていたが、恐れていた「メンタルとの闘い」の最終ステージが遂にやってきた。スポーツの世界でよく言われる、「最後はメンタルだ」という所にいよいよこの私もその最終ステージにやってきたのだ。「さて、どうする俺?」そんな問いかけを三人目の自分が問いかける。「弱気の自分」と「強気の自分」、それを「冷静に見る自分」と、自分が三人にも分裂して我が肉体を離れていく。いよいよ頭がおかしくなったかと、意識がもうろうとする中でそう思った。
「そうだ!ゴールシーンをイメージしよう!」 そう思いついた。この先まだまだ残っている苦しみを超えたどり着いたFINISHゲートでゴールテープを両手で持ち上げ達成感に満ち溢れて泣いている姿を・・・ 自分はこれまでこのためにやってきたのだと、思い描くのだ!と。 目に見える景色は相変わらず暗闇の先にある投光器の光をひたすら追いかけているけれど、その景色は頭に映っておらず、脳裏に描かれた自分のゴールシーンだけが目に映っていく。 すると体の奥底から力が沸き上がってくるではないか!「うぉ~っしゃぁ~!」と闘う「勇気」が「弱気」な自分を蹴散らしていった。不思議と肉体が軽くなり前へと足が進んでいったのだった。
ところがそれは一瞬の覚せい剤でしかなかった。

一定の時間だけ覚せいされ力が出るが、その薬が効くは時間が限られていた。脳裏のスクリーンに描かれた自分のゴールシーンは、肉体的な限界の後押しによって起こる「弱気」な自分によってビリビリとそのスクリーンが破られていく。体は急に重くなり、足が止まり歩き始めてしまう。「いやいや、それは困る。何としてでもゴールしなければ!」と再び脳裏に自分のゴールシーンを描き力を振り絞ってまた走り出していく。そしてまたその覚せいは一定の時間で切れてゆく。その覚せい剤を何度も何度も繰り返し打っていくが、回数を重ねていくうちにその間隔は短くなってゆく。薬が効かなくなっていくのであった。「もっとたくさん薬をくれ!もっと強い薬をくれ!」それはまるで薬物の中毒患者のようになっていった。

イメージの薬物中毒症と肉体の限界でさらに意識がもうろうとなっていったある時、ふと思い出したことがあった。ずいぶん前の事だが、エベレストを何度も挑戦し達成したある登山家の講演を聞きに行ったことがあった。その講演の話の中で、「山頂まであと少しという所で、肉体的・精神的に限界が訪れた。とてつもない苦しみが体と心を襲い、そして意識がもうろうと薄れていき眠気が襲ってきた。このまま眠気に誘われて寝てしまえばどんなに気持ちがいい事だろう。しかしそれは死を意味することだった。それは絶対にしてはならないという意識だけはあったのでこのまま寝るわけにはいかない。しかし、苦しみはもう限界だ。さてどうするか?」 そんな話しを講演で聞いていたことを何故かふとこのタイミングで思い出されていった。そう、自分もこの登山家と同じような心境に陥っているのだということだった。頭の中にある遠い記憶の引き出しが、必要になったタイミングでカパッと開き、その引き出しの中身を今すぐ取り出せと言わんばかりの、必要になった時にだけ用意された私の過去の体験から引き出された情報なのだった。

その講演で登山家は続けてこう言ったのだった。

 それは 「苦しみに感謝、苦しみにありがとうと言うことだ。」 

講演を聞いていた当時の私は、「この登山家は何をアホなことを言っているのか?苦しみに感謝、ありがとうだなんて誰がそんなことを言うのか?苦しみにありがとう?頭がおかしくなっただけじゃないのか?」とそのド変態的発言に耳を疑い、そしてそれを非難した。普通の人にとって、「苦しい時に感謝する、ありがとうだなんて言う人はまずいないだろう。ましてやそんな考えにもならない。なんで、苦しみに対してお礼を言わなければならないのか?」頭がおかしいとでしかとても思えないのである。そう思って聞いていた講演の話が、今になってこのタイミングで、この佐渡トライアスロン終盤の苦しい時に限って、もうろうとする意識の中から引き出されて、思い出されていったのだ。

「苦しみに感謝?ってなんだよ、いまそれをなぜ思い出す?」と自分を疑った。しかし、よく考えてみれば今の自分の状況はとてつもなく苦しい。朝6時からずーっと肉体を駆使して、気を緩めることも休めることもなく闘い続けてきた結果、ついに肉体的・精神的限界がやってきているこの状況でそれを思いだすということは訳があるに違いない。そう、そういうことだ。苦しみに感謝しろということだ。

そして、その現象を素直に認め、受け入れることにした。歩いては走り、走っては歩くを繰り返しながらくるしみと闘っているその時、自分に素直に言った。

「ありがとう、この苦しみに感謝、全ての皆さんに感謝、そしてこの自分の体、そしてこの精神に、ありがとう。」

すると、不思議なことが起こった。これまでの苦しみがスーッと体から蒸発するかのように消えてゆく。「どうしたんだこれは?」 やっとあの時、登山家が講演で言っていた「苦しみに感謝、ありがとう」という意味を理解した。わが身をもってそれを体験したのだった。 「そういうことだったのか・・・・」 

足取りが少し軽くなり、また1歩1歩前へと進み始めていった。しかしまだ残っている距離はおそらく25km位はあるだろう。その残された道のりで、ただひたすら苦しみに感謝をしながら進んでいくしかもう方法がないということに気が付いていった。 「苦しみに感謝、ありがとう」 日常生活では考えられない境地であった。

人は苦しみに耐えられなくなった時、ふと何かを思い出す。それが何であるのかはその人、その時になってみないとわからない。これまで積み重ねてきた人生経験の蓄積から選ばれた引き出しが、その必要なタイミングで開かれる、まるでアドベンチャー映画のような世界がある。 私もそのとき扉が開かれた。

やがて、だんだん意識は薄れていく。遂に体がしびれ始めてきた。もう限界なんだな・・・きっと。

次に脳裏に開かれた引き出しは、過去の楽しい幾つかの思い出だった。脳が限界を起こし、楽しい思い出を引き出して、痛みと苦しみを緩和しようとしてきたのだった。色々な思い出が走馬灯のように薄れる意識の中で、次から次へと展開していった。これまでの苦しみよりも楽しいことが次から次へと思い出されてゆくので「それはもう楽しかった・・・。」 としかいえない。そして「人はこうやって死んでいくのだろうなあ・・・」という何となく認識があったことを今でも覚えている。自分が走りながら、目を開いているのか、目を閉じているのか分からないくらい、周りの景色は目に映らず、その幻覚に心を奪われていった。周りがもう全く見えていない。

「ガツン!」

目を閉じたまま踏み出した足が、道路のつなぎ目の小さな段差につまずき、転びそうになった。よろけて何とか無意識の反射神経でバランスを取り戻し、目を覚ました。そして気が付いた。

「俺は死にかけていた・・・」

その場で前かがみになり両手を膝につき、認めざるを得なかった。

「もう、限界だ・・・。」

「このまま進んでいっても、このペースでは完走はもう無理だ。ここでリタイアをしようか・・・。」

遂に弱音を吐く自分を認めた。完走はあきらめるしかなかった。その場で5分程うずくまってしまった。スタッフの方にリタイア宣言して助けを呼ぼうかとずっと考え込んでいた。
すると、昨日フェイスブックで皆さんから頂いた応援メッセージが思い出されていった。「頑張ってください!」、「行け!必ず完走してね!」、「気合いだ!」、「最後まであきらめるな!」、「1歩でも前に進め!」という皆さんの言葉と顔が思い浮かび上がっていった。

そしてふと思った「このままリタイアしたら応援していただいた皆さんに申し訳ない。完走は無理かもしれないが、自らリタイアすることはない。1歩でも前に進もう、少しでも距離を伸ばそう。足が動けなくなったら、はってでも前に進もう。」そう思えてきて、再び立ち上がることにした。

膝に手をついて前かがみになっていた体を起こし、再び前へと歩き出した。もうほとんど走れない状態だが、歩くことならできる。1歩でも前に進もう。暗闇の中にまた行く先に見える街灯の光を目指して歩いて行った。

やがて商店街が見え、応援する地元の人たちの声が聞こえてきた。周りは商店街の光で明るくなり景色もはっきり見えている。この商店街の先には、メイン会場がありFINISHゲートがある。しかしながら、私はこのゲートをまだくぐることは許されず、もう1周今来た道を走っていかなければならない。つまり、1周約21kmのコースを2周してからゴールが待っているのだ。自分はまだ1周目だという事はさすがにわかっていた。

商店街を通り抜けていくと、沢山の人の声援を受ける。「ナイスラン!」、「あとちょっとだよ!」、「頑張れ!」など。でもね・・・僕はもう歩いているし・・・と思っても、容赦なく「ナイスラン!」と声援を受け、もう走れないのにその人たちの前だけ無理やり走ってみせてしまう、走れと命令された犬のように。そんな繰り返しを商店街ではパフォーマンスのために最後の力を振り絞る。「あとちょっだよ!」って言われても「私はもう1周ある人なの!」って言い返すこともできず、「ありがとう!」と手を振って声援にこたえていった。

商店街を抜けメイン会場が近づくと、今ゴールしている選手を称えるマイクパフォーマンスが次から次へと耳に入ってくる。「ああ、いいな・・・うらやましいな。僕はまだもう1周あるし、またあの暗闇の中へ走っていって、また自分と闘わなければならないんだよね・・・帰ってこれないとは思うけど。」と、その光景を横目にみて嫉妬しながら歩き進んでいった。
そして、そのメイン会場の横に設置された、2週回目に入る21.1km地点へと向かった。ところが、何だか雰囲気がおかしい。その道の先はポールで封鎖されもう進むことができなくなっていた。

「はい、ここで終了です。」

と審判から告げられた。「あれ?えっ?」と思ったが、そこは関門だったことをすっかり忘れていたのだった。この21.1km地点を夜19時までに通過していなければ失格なのである。つまりこの先行っても見込みがないという関門だったのだ。自分の腕時計を見ると19時04分であった。「ああ、やっちまったな・・・」と思った。あと4分早くこればここは通過できたはずだと一瞬後悔をしたが、たとえ4分早くこの関門を通過できたところで、この先も数カ所関門がありそこに間に合ったかどうかというともうこの状況では自信がない。メイン会場であり、自転車や荷物が置いてあるトランジションエリアのすぐ横だからちょうどよかったという事だった。
そして、悔しさは計り知れないが、自分の失格を素直に受け入れることができた。最後まであきらめずに、リタイアすることなく1歩でも前に進んだ結果だからだ。自分で納得できた。

「実力がまだ足りなかったという事だ、しかしよくここまでこれた。事故もなく無事でよかった。死なずに済んだ」と、朝6時スタートして夜19時までの13時間、ずっと自分と闘ってきたその苦しみから解放された安堵感と、それでもやっぱり完走できなかった悔しさとが交互にこみ上がってきた。

最後のランへと走り出す前にぐちゃぐちゃにしておいていった自分のバイクの所へ戻り、スイム3.8km、バイク190km、ラン21.1kmで失格となったが合計214.8kmの道のりを自分の力で進んでこれたということは自分で自分を褒め称えてももいいだろうと今日1日の戦いを振り返った。

 
 

そして、つぶやいた。「帰れるんだ、これで帰れるんだ。」

まるでアリスの名曲「チャンピオン」みたいだなと、ずいぶん頭がやられおかしくなった自分でそっと笑う。

 

こんなに大変な挑戦は、自ら好き好んで私ならやらない。

私はただ約束を果たすためにやっているだけだ。

そして、自分を超える挑戦をする事への希望を持ちながら
日々の暮らしを送ることの幸せを実感させてもらっている。

ありがとう、トライアスロン。

 

そして、自分の限界は、自分で決めてはならない。

今回、236km佐渡国際トライアスロン大会には完走することはできなかったが、

ひとつだけ分かったことがある。

 

それは

「完走できるまで、何年たってもやるだけだ。」

約束は必ず守る。

 

応援してくださった皆様へ感謝いたします。ありがとうございます。

 

   2016年  挑戦者 近藤 慎一

 
佐渡島を後に、来年の挑戦を誓う。 「また会おう、佐渡」
 


 

すべてはここから始まった・・・